館跡の東南隅旧松雲院墓地内にあります。朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族の景鏡の裏切りにより自刃。法名は松雲院殿太球宗光大居士。現在大野市にも義景の墓がありますが、これは江戸時代に建てられたものです。館跡の墓は天正4年に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられました。館跡には当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれました。心月寺は朝倉氏滅亡後、一時丹生郡に避難していましたが、慶長4年、館跡に再興されました。その後慶長6年に北ノ庄に移り、館跡の寺と墓は心月寺の末寺として義景の法名をとり「松雲院」として残されることとなりました。発掘前の館跡地には中央に「松雲院」が、西北部に「足羽町一乗谷支所」が置かれていましたが、発掘開始時にそれぞれ移転し、松雲院は心月寺と統合されました。