朝倉景鏡は朝倉最後の当主義景の従兄弟で、父は戦国朝倉氏三代貞景の次男景高。義景の時代、家臣団の中でも筆頭の位置にいました。朝倉軍の大将としても何度か出陣しており、足利義秋(義昭)が、一乗谷に移った永禄10年(1568)11月御礼のため参上した際、式部大輔に任ぜられています。天正元年(1573)の朝倉氏の滅亡につながる近江出陣には不参し、義景が刀禰坂の戦いで大敗して一乗谷に帰ると、大野に逃れ最後の決戦を勧めながら、最後は義景を裏切って自害に追い込み、このため、翌年一向一揆で朝倉旧臣への攻撃が強まると、平泉寺に逃げ込み、最後は、平泉寺もろとも滅亡しました。その一乗谷の屋敷跡は、城戸ノ内にあり、当主義景についで立派なもので、外濠をかまえ5,000平方メートルの広さを誇っています。濠を有した屋敷としては、現在のところ朝倉館、景鏡館、前美濃国主で亡命していた斉藤龍興舘の3箇所が確認されています。屋敷跡は、その後の一乗谷川の氾濫で削られ遺構はあまり残っていません。現在は、道路が舘跡中央を通っていますが、それでも、広大な屋敷跡は実感できます。