朝倉氏は代々越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。応仁の乱(1467)が勃発すると、孝景は当初は西軍に属し京都で戦いましたが、文明3年(1471)越前に帰国、越前守護代甲斐氏に代わり守護代職を条件に東軍(幕府側)に寝返りました。このため甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475)には越前をほぼ平定しました。しかし、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続いたのです。この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。