日本庭園の定石にとらわれない鋭敏な造形感覚、自由な意匠

中島を置かない池、池面に極めて近接して長く渡されている数寄屋造りの建物、また砂利汀の流れや景石の配置方法など、
現代の作り手たちをワクワクさせる空間芸術がここにあります。

庭園は、江戸時代初期から中期を代表する名園で、池を敷地の中央に大きく配し、その周りを散策しながら景色の変化を楽しむことのできる回遊式林泉庭園です。

文政6年(1823)の『御泉水指図』と現状が一致していて、史料に記録されている景石や石橋、地割等がそのままに残されています。

なお、『御泉水指図』は、建築や営繕を担当する藩の機関である御作事所が作成した図面で、建造物の詳細な寸法や仕様が記録されています。
この史料が残されていたため、作庭年代や遺存状況の高さが明らかとなり、また昭和20年(1945)の福井空襲による建造物の焼失後も、建物の復元が可能となりました。

現在の庭園面積は約9,537㎡ですが、『御泉水指図』にもある通り、江戸時代は「南北45間余(約82m)、東西85間余(約155m)」の約12,710㎡で、現状よりさらに東側が11m程、南側が2m程、西側が45m程広がっていました。
このように、本庭園の規模は他の広大な大名庭園と比して決して大きくはありませんが、人を圧倒する規模や豪華絢爛な意匠は採られず、むしろ細部にいたるまで気を配って、滞在者の気持ちを静め、心落ち着かせる空間づくりがなされていると言えます。

御泉水指図

『御泉水指図』(文政6年(1823)、136×160cm、松平文庫 福井県立図書館保管)には、「覚」として建造物の詳細な仕様や寸法が記されています。7代藩主昌明によって元禄2年(1689)頃に行われたとされる大改修以降、文政6年(1823)頃までに大きな造作の記録は認められないため、本図の様相が、ほぼ大改修後の状況を踏襲すると考えられています。

他に類をみない水のあつかい

この庭園の魅力の一つである水の造形のうち、池は正方形に近い形で敷地一杯に大きくとられており、面積は約2,300㎡、最深部170㎝です。
池のなかに中島を配していないことが特徴の一つで、視界を遮られることのない伸びやかな水面と、そこに映ずる御茶屋や空の様子が美しく、ほかには類のない豊かな水の印象を与えて、訪れる人々の心を明るく和ませています。
また、岬や出島によってその汀を複雑に入りくませ、空間に変化を生み出しています。

水面に映る小亭や築山

池の水面に小亭や築山等が映し出されています。御月見ノ間から、月が池に映ずるのを眺めて楽しんでいたと考えられています。

その豊富な水は、昭和初期までは、庭園の東南隅から、城下の飲料水であった芝原上水の清水を引き込んでいました。
現在は、戦後の都市計画を経たため、地下水を汲み上げて流し、また循環させています。
なお、芝原上水は北東約8km先にある芝原郷(現永平寺町松岡)で九頭竜川から取水し、本丸の北側から東側に水路として張り巡らせていました。

この清い水を一旦、庭園の南東隅に貯めたのち、かつては東側につくられていた芝の小丘の地下に暗渠で通し、滝石組から水音とともに流れ落としていました。
来訪者の目には自然の滝のように湧き出し流れ落ちているかのように見える趣向であったのです。
そこから幅広く浅いせせらぎとなり、さらに大きく蛇行して流れの庭となっていました。
御茶屋御月見ノ間の東面に取り付けられている月見台からは、この清らかな流れの庭を楽しみ、また月の出を観賞することができました。

この流れの護岸は一般的な岩組ではなく、優美な砂利敷きの汀で、平安時代から用いられていた手法の現存例として極めて希少なものです。
流れの要所には自然の景観らしく景石が絶妙な位置に置かれています。

現在は、11m程が道路下にあるため、滝や幅の広い流れなど当時の様子を見ることはできませんが、かつての景石が今も道路下に保存されており、また西側の砂利の汀はそのままに再現され、水を近くに感じながら散策を楽しむことができます。

塀際の石組は、平成5年の一般公開のための修理時に新設されたものです。

数寄屋類聚遣水

昭和11(1936)年に出版された『数寄屋住宅聚』(北尾春道)掲載の古写真です。戦前は、幅広い流れが広い空間をゆったりと流れており、御茶屋がまるで中州の上に建っているように見えます。

数寄屋類聚御月見ノ間からの遣水

御月見ノ間東綿からのかつての遣水の眺めです。手前に月見台があります。
(『数寄屋住宅聚』北尾春道、昭和11(1936)年より)

このせせらぎの先で、細長い巨石を流れに直行して据え、大きな橋としています。
巨石の下を浅い流れがしみ込むように流れる趣向で、これも他の庭園にはあまり見られないものです。自然石の石橋の先から一気に視界が開き、流れの庭から奥行きのある池の風景が広がっていきます。

遣水

自然石の石橋は、長さ約500㎝、幅約90㎝、厚さ約50㎝の凝灰角礫岩です。
橋は水面から離して渡すことが一般的ですが、ここでは、浅い流れにどっしりと据えて橋としており、見どころの一つとなっています。

河口左岸は趣きのある景石による岩組護岸となっていて、州浜や御茶屋からの景色に変化を与えています。

一方、河口右岸とつながる池の岸辺は、砂利汀が途切れることなく砂利州浜となり、本庭園の美しさを際立たせる景観を形作っています。そして、この砂利州浜の空間に、御座ノ間に続く飛石が色とりどりに配されています。
福井県内の名石が用いられており、その一つが、雄島の流紋岩(安島石)です。紫色が珍しく、また薄い石層が重なった流離構造が特徴となっていて、室町時代末期の名庭である一乗谷朝倉氏遺跡の館跡庭園にも用いられている福井の名石です。

他に、敦賀半島のピンク色の黒雲母花崗岩や、青緑色の緑色変岩など、色鮮やかな石が置かれており、砂利州浜からだけでなく、御茶屋の御座ノ間や御月見ノ間からの眺めに彩りを添えています。

飛石安島石

福井の名石のひとつ、雄島の流紋岩(安島石)の飛石です。

飛石大理石

敦賀の黒雲母花崗岩の飛石です。やわらかい桃色がよく映えます。

飛石

福井の名石が用いられており、薄い層が幾重も重なった紫色の流紋岩(安島石)や、ピンク色の黒雲母花崗岩、青緑色の緑色変岩などによる色鮮やかな飛石です。

また、御茶屋の束石となっている巨岩は、御茶屋や庭園各所からの眺めの要所となっているとともに、砂利州浜の優雅な曲線と、御茶屋土間縁の切石の直線とを巧みに融合する役割も果たしており、当庭園の芸術性の高さを示す好例と言えます。

束石

巨大な平石が、景石であるとともに、柱を受ける束石ともなっています。そして、州浜の曲線と、建物土間際の切石の直線とを融合させています。
(『数寄屋住宅聚』北尾春道、昭和11(1936)年より)

石橋を渡って進むと、右手には流れ越しの御茶屋と池、そしてゆるやかな曲線を描く築山などの眺めが広がります。
御茶屋は流れと池の間の中州に建っているようにも見えます。

そこから少し進むと、外径約90㎝の笏谷石製の蹲踞が現れます。
蹲踞の底にはもとより穴が開いており、当時も水が湧き出していたと考えられています。

現在は、地下水を汲み上げている際に清水が、蹲踞そばに埋められている大きな海石の上を当時溢れていたと推測されているとおりに溢れ流れていきます。

この先が臼ノ御茶屋となります。現在は、南側が2m程市道等となっているため、遺構のみの表示となっています。主室には床と二重違棚、そして御次之間や待合等を配していました。

『御泉水指図』の臼ノ御茶屋に関する記述には「水玉鳥子紙張天井」とあり、越前五箇村(現・越前市大滝町、不老町、岩本町、新在家町、定友町)で古代から漉かれていた越前和紙が用いられていたことがわかります。

青いつくばいと御茶屋

蹲踞の水面を通して池越しにみる眺めは、水鏡に映る雁行する建物群や岸辺の州浜が調和し、見どころの一つとなっています。

越前和紙「水玉」

「水玉」は越前和紙の美術工芸紙の一つで、江戸時代中期から漉かれているとされ、現在も、一子相伝の技で漉かれ続けています。
(参考:「越前和紙 千五百年の技と用具」http://www.washi.jp/yougu/

越前鳥の子紙は江戸時代、たとえば『雍州府志』(貞享元年(1684))に「越前鳥子、是れを以て紙の最となす」、また『和漢三才図会』(正徳5年(1715))に「肌なめらかで書きやすく、紙質ひきしまって耐久力があり、紙の王と呼ぶにふさわしい紙」と褒めたたえられています。
また「水玉」は、漉いた越前鳥の子紙に、藍染の越前鳥の子紙を叩いてつくっておいた「華」と呼ばれる紙料を漉き重ね、乾き切らないうちに、水を含ませた藁束で水滴を落とすことで水玉模様をつくりだしています。
この薄い水色に白い水玉が躍る紙が天井に張られた茶室は、いったいどのようであったでしょうか。

臼ノ御茶屋は大正の頃、老朽化して取り壊されたと伝えられており、御茶屋のように昭和初期の古写真は現時点でみつかっておりません。

なお、現在の御茶屋には、連綿と継承されてきた越前鳥の子紙が襖や壁に用いられています。

ところで、江戸時代には越前奉書紙が有名となり、『日本山海名物図会』(宝暦4年(1754))には「凡日本より紙おほく出る中に越前奉書、美濃直紙、関東の西ノ内、周防岩国半紙尤上品也、奉書余国よりも出れども越前に及ぶ物なし」と絶賛されています。

躍動感のある空間構成に立石による石組

この臼ノ御茶屋の先には小山が築かれており、そこを飛石で登っていくと、頂上付近に笏谷石の延べ段があります。
そこを池側に振り返ると、越前海岸松島の柱状節理の2本の岩柱による特徴的な石組があり、その先に、水球のなかに浮かんでいるような御茶屋を望むことができます。

その先を進むと、池から最も深く入り込んでいる渓谷に、橋が池面から高く架けられており、渡ると岬の先の小亭が現れます。
そこへ続く飛石もまた色とりどりです。
小亭は「清廉」と名付けられています。
休息や庭園鑑賞のために用いられていたと考えられ、また御茶屋からの景色の要所ともなっています。

御茶屋

水球の中に浮かんでいるような御茶屋。1月の情景です。

小亭のある岬側面の石組は、大きな立石を用いた豪壮なもので、橋上からだけでなく船上から見ることが意識されていると考えられます。

このように、小亭周辺は庭園中で最も躍動感のある空間で、小さな敷地に小山や岬など水平面と垂直面の双方に動きがあり、また立石による見ごたえのある石組があって、本庭園の芸術作品としての側面に密に触れることのできる空間の一つと言えます。

小亭を過ぎて小山を降り、池の周りを進むと、左手に段上の石組や、右側に七重層塔が現れ、その先に玉石の州浜が広がります。
そこから望む御茶屋は、池面に翼をひろげる鳥のようで、見どころの一つとなっています。

その先の小さな石橋を渡り、築山下の色鮮やかな飛石を歩いて先を進むにつれても、景色の変化を楽しむことができます。
築山の中央には滝石組があり、より小さな石橋が架けられています。

このように、池の周りには、岩島や州浜、築山や七重層塔、石組や反り橋等が配されており、景観が刻々と変化していきます。
また、御茶屋のいずれの部屋から眺めても、添景物等が池面と織り成す景色は調和がとれています。

清廉

総ケヤキ造り、屋根はスギの薄板を重ね張りした柿葺(こけらぶき)です。天井は網代(あじろ)張り、床は正方形の板を斜めに敷いた四半敷きとなっています。

橋下石組

大きな立石を用いた岬側面の石組

まさに「庭屋一如ていおくいちにょ

御茶屋などの庭園建築は、庭園と一体的に設計されており、建築物に合わせて庭園がつくられるのでも、庭園の添景としてのみ建築物があるのでもなく、極めてよく調和しています。

そして、石積みによる建築礎石により、水面と垂直方向で極めて近い座敷空間が作られており、滞在者自身が水面に浮かんでいるような感覚をもたらしています。
たとえば、屋形舟にのっているかのような趣向の櫛形ノ間や、深い軒下の土間から直ぐに深い水面となる御座ノ間など、室内に居ながら、水をごく近くに体感することができます。
また、御茶屋は池に面して南北に細長く展開しており、部屋ごとに様々な意匠の建具等によって趣きの異なる風景が切り取られています。
どの室内からの景色も破綻なく庭園と建物とがつくられており、空間の一体感は格別です。

池に浮かぶ養浩館庭園

南北に細長い建物のほとんどの面が、水に接した形で建てられている。一部では、建物の下を池が入り込み、池とは反対側に五角形の内池をつくり出している。

遣水(やりみず)

当時は、芝原上水の豊富で清らかな水を、水音を奏でる滝と、大きく曲がりをつけた小川で、ひとつの流れの庭をつくりあげたのちに、池に導いていました。
現在は、流れの幅が狭められ、池の水も芝原上水ではなく地下水をくみ上げて利用していますが、現存例のめずらしい砂利汀は再現され、水のごく近くを歩いて楽しむことができます。

遣水

七重層塔の景色

池にそって南に進むと花崗岩で再現された石製七重塔があります。

元々の塔は指図にも記載があり戦前まで残っていましたが、現在は鯖江市の民家に移されています。この石塔は笏谷石製の層塔で永享6年(1434)の銘が刻まれており、勝山市下毛屋の泰澄大師の母の墓所と伝えられる場所から運ばれたと伝わっています。

七重層塔

池北西の景観

達磨型の岩島が、景観のアクセントになっています。
岩の周辺には玉石が州浜状に敷き詰められています。
池から流れ出る水路には曲線の美しい切石橋が架けられています。

池北西の岩島

御泉水指図

『御泉水指図』に記された景石や石橋などが、現在の養浩館庭園と一致し、江戸時代の状態をよく保っていることが確認できます。

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