庭園や建物の専門家双方から絶賛されているのは、優れた水の造形と、庭と屋敷の見事な一体感です。作庭は江戸時代、福井城下に五重にめぐらされた堀の外堀沿いにあり、その豊富な上水を最大限に活用した優美かつ幽玄な水の庭園です。
この庭園は、数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)で、江戸時代初期から中期を代表する名園の一つです。
かつては、福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」と称されていました。福井城の本丸から北東約400mの位置にあり、福井城の外堀の土居に接しています。
成立時期については詳らかでない点が多いのですが、3代忠昌(ただまさ)時代(1623-1645)に藩邸となり、城下を流れる芝原上水(しばはらじょうすい)を引き込んで御泉水屋敷となったと伝えられています。
御泉水屋敷の文献上の初見は明暦2年(1656)で、4代藩主光通(みつみち)の側室が御泉水屋敷において男子(権蔵/ごんぞう)を産んだと福井藩の歴史書である『国事叢記』などに出てきます。
昭和17(1942)年に出版された『日本建築 養浩館』(田邊泰)に掲載されている古写真です。手前の景石や飛石、建物の縁石などが今に残されています。
寛文5年(1665)には、4代藩主光通が、御泉水屋敷にて、家臣を集めて宴を催したり、武芸を観たりしています。また、延宝3年(1675)には、5代藩主昌親(まさちか)が相撲を観て楽しんだことが文献に残されています。
現在の姿に整えられたのは、7代藩主昌明(まさあき、のち吉品と改名、元5代藩主昌親)の頃で元禄年間(1688-1704)とされています。宝永2年(1705)には、東府麻布広臨寺の節外和尚に茶を饗したことが記録されています。宝永5年(1708)には、従来の御泉水屋敷である「本御泉水」に加え、西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所としました。この時、御泉水屋敷の敷地は最も広くなり、今の養浩館庭園・お泉水公園・郷土歴史博物館を合わせた程の大きさとなりました。
御座ノ間の違棚や床柱付書院の様子などがよくわかります。(『日本建築 養浩館』田邊泰、昭和17(1942)年より)
吉品(よしのり)の没後、その規模は元の御泉水屋敷の敷地に戻り、引き続き、茶会・饗応の席や藩主一族の休養の場、住居などとして使われました。
その後、明治維新によって福井城は政府所有となりますが、御泉水屋敷の敷地は松平家の所有地として、福井事務所や迎賓館の機能を果たしています。
「養浩館(ようこうかん)」の名は明治17年(1884)、松平春嶽(しゅんがく)によってつけられました。「人に元来そなわる活力の源となる気」、転じて「大らかな心持ち」を育てることを意味するようになった孟子の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」に由来すると言われています。
大正2年(1913)には、元首相の大隅重信夫妻をもてなすなど、昭和初期まで越前松平家休養や迎賓等の場として使われ続けました。
大正時代に、老朽化のため取り壊されたとされる「臼ノ御茶屋」の図面です。現在は、半分ほどが塀外にあるため、遺構表示のみとなっています。(『数寄屋住宅聚』北尾春道、昭和11年(1936)所収)
養浩館庭園は、その数寄屋造りの建造物と庭園が早くから注目され、すでに戦前に建築や庭園の専門家による調査がなされ、学術的に高い評価を受けていました。
昭和20年(1945)の福井空襲による建造物の焼失後も、庭園はよく現在に伝えられていたため、昭和57年(1982)には、「良く旧態を残した優秀な庭園である」として国の名勝に指定されています。これを機に、文政6年(1823)の「御泉水指図」を基本に、戦前の調査時の古写真や、新たな発掘調査などをもとに復原整備が進められ、約8年の歳月の後、平成5年に完成し、一般公開されました。
本庭園では、発掘された遺構の上に直接建築するという画期的な手法がとられ、屋敷から庭を眺める視線の高さが当時の状態に保たれています。また、名勝庭園ではめずらしく、かつての藩主と同じように座敷からゆったりとお庭を眺めることができます。
ここでのみご体験いただけるくつろぎの時間を、存分にお楽しみください。
昭和11(1936)年に出版された『数寄屋住宅聚』(北尾春道)に掲載されている古写真です。土間のすぐそばから池が広がっていることが見て取れます。
慶長6年(1601)から初代藩主・結城秀康が築いた城下町は、幾重にも堀がつくられ、城や屋敷群が、まるで広大な水面に浮かんでいるかのようです。この圧倒的な水の空間に刺激をうけた感性から、養浩館庭園の他に類のない水の景色が生まれたのかとも思われるほどです。
本図は、平成15年(2003)の地形図(1/5,000)に、「福井分間之図」(部分)を重ねたものです。「福井分間之図」(福井藩士 田辺利忠・跡部敏勝、享和3年(1803)、306×282cm、松平文庫 福井県立図書館保管)は、実測により作成された図で、以後の城下図の基本となりました。武家屋敷地の門の位置と姓が記されています。